新しい価値観で社会を進化させたい。

勝ち負けよりも、 大切なものがある。

NPO法人湘南ベルマーレスポーツクラブと共に、地域に根ざして活動を続ける株式会社湘南ベルマーレの水谷尚人氏。湘南エリアをホームとして、日本プロサッカーリーグJ1リーグ所属のトップチーム湘南ベルマーレ、高校生チームU-18および中学生チームU-15の活動を管轄している。またNPO法人湘南ベルマーレスポーツクラブでは、ビーチバレーチーム、トライアスロンチーム、フットサルチーム、サイクルロードチーム、ラグビーチームの活動をサポートする他、サッカースクールや各種競技の普及活動など総合型地域スポーツクラブの実現に向けた地域貢献活動も積極的に行っている。

リクルートから、
サッカーの世界へ

自分のことはあまり考えないですよね。自分が何かをやることでベルマーレが面白くなって、ベルマーレに関わる人たちが楽しくなって、地域が明るくなって、日本も明るく元気になって…そうやって世の中が面白く明るくなっていくことが望みです。今はね。若い頃はもちろん、「自分のこと」ばかり考えていました。リクルートに入社したのも、給料の高さに魅力を感じたからですし、大学の先輩がいなくて、伸び伸び働けそうだなと思ったから。販売促進部に配属になって、主に雑誌関係の流通の営業をやりました。

入社して2年ほど経った頃、すごいニュースが飛び込んできた。日本にサッカーのプロリーグ(Jリーグ)ができるというんです。小学校3年生から大学までずっとサッカーをやっていましたし、ぜひそこに関わりたいと思いました。リクルートで営業経験を積んできた、という勝手な自信もあった。だから辞表を出していました。Jリーグに応募する前に、です。落ちるはずないと思っていたんですね。それで、意気揚々とJリーグの面接に出かけていった。結果…落ちましたね、見事に。完全に当てが外れた形です。とはいえ、既に辞表を出したリクルートに戻るわけにもいかない。これからどうすればいいんだろう、そんな私に声をかけてくれたのが、日本サッカー協会だったんです。

サッカー協会というのは、各国に一つずつしかない組織で、サッカーの普及・強化活動をするところです。1993年暮れに日本サッカー協会に拾ってもらって、そこからはサッカーに関わる様々な仕事に携わりました。当時は日本でのサッカー人気が急激に高まっていた時期でしたから、よく覚えています。1993年と聞けば「ドーハの悲劇」なんて言葉がすぐに浮かんでくる人もいるかもしれません。その日本サッカー協会で後に経験したある出来事が、私の仕事観を大きく変えることになります。

俺はこのままでいいんだろうか

転機は2002年の日本での初開催(アジア圏でも初)となった第17回FIFAワールドカップです。実は私は1996年からの6年間、サッカー協会からJAWOC(2002年FIFAワールドカップ日本組織委員会)に出向しており、ワールドカップの仕事に取り組んでいました。96年5月にFIFA理事会において日韓合同開催という形にはなりましたが、ついに日本にワールドカップが来ることになった。私はチケッティングを担当することになりました。

チケッティングというのは、チケットの販売戦略を策定し、値段を決めたり、どのように売るか誰に売るのかを決めたりする仕事です。主催者であるFIFA(国際サッカー連盟)があくまでも最終決定権者ですが、今回は日韓合同開催ということで、日本、韓国とでチケッティングサブコミッティーという会議がセットされ、すべてはここで議論され、方向性がだされることになりました。とはいえ、FIFAはチケッティングのプロではないのでエージェントを指名します。ところがこのエージェント、VIPのアコモデーションでは仕事の実績はあるもののチケッティングははじめてでした。このチケッティングサブコミッティーで日本も韓国も、もちろん自分たちのプラン、考えを採用してもらいたい。ワールドカップは国を挙げての一大プロジェクトですから、自然と交渉にも熱が入ります。我々(日本)がいて韓国がいて、さらにFIFAとそのエージェントがいて。この4者で会議を2ヶ月に1度くらい、チューリッヒ、シンガポールやブエノスアイレスで行いました。話が簡単にまとまることはなく、7時間、8時間、時には10時間以上、激しい議論が続くこともありました。

繰り返しの交渉の結果、結局はFIFAの指名したエージェントのプランが採用されることがほとんどでした。つまり、私たちは負けてばかりでした。むかついて、悔しくて、帰りの飛行機の中でも気持ちが収まらなかった。あんなに準備したのにと。しかし、あるチケッティングサブコミッティーの帰りのこと、やがて窓の外に日本の国土が見えてきて、空港に向かって下降を始めると、「いや、ちょっと待てよ」という気持ちになったんです。こうやって交渉に負けて帰ってきても、日本には変わらず自分の居場所がある。多少怒られたり、嫌味を言われたりすることはあるかもしれないが、それでも毎月、月末になると、いつも通りの給料が振り込まれるんだよなと。あらためて会議のことを思い出すと、交渉相手の必死さはすごかったな、と感じました。うそはダメだと思いますが、彼らには、交渉に勝つためなら手段を選ばないぞ、というくらいの覚悟があった。それもそのはずで、たとえ負けてもそれまで通りの立場が保証されている私たちと違い、彼ら自身がオーナー経営者であり、自分たちのプランがFIFAに否決された場合、従業員やその家族が路頭に迷う、というくらいの状況で交渉に臨んでいたのです。

悔しさは危機感に変わりました。俺はこのままでいいんだろうか。彼らのような立場に身を置いた上で、必死になって何かに取り組まなければならないのではないか。いろいろ考えた結果、日本サッカー協会を離れることにしました。そのまま勤務していれば、やがては役職について、今よりいい生活を送れていたのかもしれません。でも、その時、迷いはなかったんです。

ベルマーレとの出会い

サッカー協会を辞めた後、自分で会社を立ち上げました。スポーツマーケティングを中心に、その後、フリーマガジンの発行、チアリーディングスクールの運営など、スポーツに軸は置きつつ、幅広い仕事をやっています。

そんな中、複数の方から「ベルマーレの仕事をやってみないか」とお話をいただきました。聞いてみれば、チームの強化部長だというじゃないですか。強化部長というのは、一言で言えば「チームを強くする」ポジション。日本では一般的には元選手や監督の経験者が担当する仕事になっています。しかし、チームを強くすること=組織の編成を考えること、だと捉えれば、むしろビジネス視点を持つ第三者がやってもいい。おもしろそうだと思って引き受けることにしました。

強化部長は、選手だけでなく監督やコーチまで含めた、チーム全体の編成を考えなければなりません。当然、簡単な仕事のはずがない。たとえ顔見知りの選手だろうが、結果が出ていなければ契約を切らなければならない。面と向かって「来年はナシだ」と伝えるのは、辛かったですよ。きっと選手の中には、「水谷の顔なんて二度と見たくない」と思っている人も大勢いたと思います。その一方で、新しい監督を見つけてきて、チームに導き入れるのも私の役目でした。2年ほどこの仕事をしましたが、その間に3回監督が代わりました。

強化部長の任を終えた後もベルマーレの手伝いを続け、以降は主に営業、資金調達をメインにやりました。2010年には湘南ベルマーレの取締役になり、そして2015年、前任の社長が辞めることになって、「次の社長をやってくれ」という話になった。湘南ベルマーレの社長です。「クラブチームの社長なんてカッコいい」と思うかもしれないけれど、そんなに簡単な話じゃない。正直、考えました。地域に生かされているクラブで、本当に俺でいいのかと。ただ2015年、ベルマーレは勢いがあった。少ない予算のなかJ1で8位という成績を残していたその流れを、長く携わってきた人間として止めるわけにはいかないと思いました。それに、もう一つ。ワールドカップのチケッティングの仕事、その交渉の中で感じたあの感覚です。

覚悟を持って、しかし明るく、受けると決めました。ベルマーレを通じて、世の中を明るくしていく。会社の仲間、選手、監督やコーチ、そして、応援してくれる地域のサポーター、いつも助けてくれるボランティアの方々、そういう人たちを、少しでも明るく、楽しくできるならそれでいい。

それから2年と少し。湘南ベルマーレは「総合型地域スポーツクラブ」として、順調に活動を続けています。競技としても、サッカーだけでなく、ビーチバレー、トライアスロンなど幅広くフォローし、学校を回ってサッカー教室を開いたり、スポーツ大会やクリニックの運営をしたりと、地域貢献活動にも力を入れています。

スポーツを仕事にするということ

スポーツ業界といっても、業務フローは一般的な会社と変わりません。目標を立てて、打ち手を考えて、実践する。だから、それほど「特殊な環境にいる」という感覚はないですね。違いを挙げるとしたら、「人が思い切り泣いたり笑ったりする姿を毎日みられる」ということでしょうか。選手然りサポーター然り、たくさんの人の「感情」を目の当たりにします。スタジアムに集まった人たちが、例えば、点が入った瞬間にワッと一斉に立ち上がる。その一体感、まさにエンターテインメントということなんですが、プロスポーツをやる上でその観点は不可欠なんですよ。選手や監督だけで頑張っていてもなかなか事業としてはスケールしない。サポーターやファン、そして我々フロント、地域、全てが共感しあい、一体化することによって感動が生まれ、エンターテインメントとなるんです。

だからこそ、「勝った」「負けた」にこだわりながらも、我々は「スタイル」を大切にしています。ベルマーレは「湘南スタイル」として「攻撃的で、走る意欲に満ち溢れた、アグレッシブで痛快なサッカー」を掲げていますが、これを積極的に発信し、その通りのサッカーを実践していく。もちろん皆、「勝つ」ことを目標に頑張っているわけですが、「負け方」が大切ということもある。スタイルを貫いたから負けてもいいという訳ではありませんが、湘南スタイルを捨てて得た「勝ち」と、湘南スタイルを貫いた結果の「負け」、どちらに価値があるのかという話です。

“選手や監督だけでなく、実に多くの人の支えがあってこそ、スポーツ事業は成り立っています。”

さらにいえば、チームに関わる皆が、フットボールクラブのビジネスモデルを理解する必要があります。選手一人ひとりが、勝つための目標を持つことはもちろん大切です。「今日は絶対に点を取る」とか「絶対に抜かせないぞ」とかね。しかし、「それだけでクラブの収入が増えるわけではない」ということをわかっていた方がいい。選手が点を取った、守りきった、勝ち点3だ。それで終わりではないんです。選手が活躍した、それを見たサポーターが感動した、次は友達を連れてきた、スタジアムでビールを飲んでグッズを買った、また次も来ようとチケットを買ってくれた…そこまでいって初めて、収入が増えたということになる。ただサッカーをして、プレーをするだけではダメで、「お客さんを感動させる」「また来ようと思ってもらう」という意識で取り組まなければ、ビジネスとして成り立たないわけです。

だから、もしスポーツを仕事にしたいという方がいたとして、それは別に「選手として関わる」ことが全てじゃないよと言いたい。大きなエンターテインメントを実現するには、いろいろな人が必要です。選手、監督、それだけじゃなく、マーケティング、PR、営業、企画…無限の関わり方がある。それでいて、「お客さんを楽しませるために頑張ろう」という想いは、選手も社員も同じなんです。

「今」の積み重ねの先に未来がある

湘南ベルマーレとしてはもちろん、中期計画など、未来に向けての動きはいろいろと考えてあります。ただ正直に言えば、そういった計画にどれほどの意味があるのかと、少し疑問を持っているのも事実で。…だって、明日どうなるかなんて誰にもわからないじゃないですか。

ベルマーレの2018年のチームスローガンは『ALIVE』ですが、実はウチのフットサルチームの中に、肺がんの選手がいるんです。病気がわかったのは2013年。彼は今も治療を続けつつ、選手としてプレーしています。彼の場合、まず「生きる」という目標があるわけです。病気に負けない。頑張って生きる、という目標です。私からすると、それだけで精一杯なんじゃないかと思うんですが、彼は違うんですね。全力で「生きる」、その上で「試合に出たい」と言うわけです。それでその目標が叶ったら今度は、「点を取りたい」と言う。そうやってどんどん、目標を更新している。いつだったか、試合が終わった後に私の所に来て言うんですよ、「水谷さん、次の目標できた」って。「何だ?」って聞いたら、「結婚したい」と。その後、彼は本当に結婚しました。

彼をトップチームのキャンプに呼んで、話をしてもらったことがあります。開口一番、「皆さん、僕が先に死ぬと思ってるでしょ?」と言うんです。「でも、もし今その扉を開けて外に出た時に車が突っ込んできたら、あなたが先に死にますよ」と。ドキッとしますよね。「先のことなんて誰にもわからないんです。だから今、目の前のことに全力で臨むんです。一生懸命練習するんです」彼の口からそう言われると、重かったですよね。そうか、毎日を生きるって、こういうことなんだなと。「ALIVE」。今、この瞬間を生きる。もちろん中長期的な目標も大事ですが、「今」の積み重ねの先に未来がある、という感覚は強いですね。

私たちは、「スタイル」を持って目の前のことに全力を傾けます。そして、当然「勝った」「負けた」の勝負をしながら、スタイルへの共感でファンを増やしていきたい。「ベルマーレの考え方、いいよね」から始まって、「ベルマーレのサッカー教室なら安心だよね」とか「ベルマーレを応援したいからこの地域に住もう」とか、そんな風に思ってもらえたら嬉しい。私たちだけじゃなく、他のチームもどんどんスタイルを発信していくべきだと思います。もちろん内容はチームごとに違っていい。美学を掲げ、目指すプレイを見せれば、きっと今以上にお客さんを感動させられる。そういう世界が実現できるなら、もう、自分のことなんてどうなってもいいですよね。お客さんや世の中をよくしていくことがずっと大切です。別に格好つけているわけじゃなく、普通にそう思っています。

ライター:児玉 達郎

(インタビュー内容は2018年3月の内容です)